日本最大級にほんさいだいきゅうのメガソーラーを瀬戸内市せとうちし

()れの()(おお)温暖(おんだん)災害(さいがい)(すく)ない岡山県瀬戸内市(おかやまけんせとうちし)
太陽光発電(たいようこうはつでん)には最適(さいてき)地域(ちいき)のひとつです。
その瀬戸内市(せとうちし)のほぼ中央(ちゅうおう)瀬戸内海(せとないかい)(めん)して東西(とうざい)(やく)2.8km、南北(なんぼく)(やく)1.8kmにわたって(ひろ)がる総面積そうめんせき(やく)500ヘクタールの錦海塩田跡地(きんかいえんでんあとち)
この広大(こうだい)土地(とち)日照(にっしょう)(めぐ)まれた気候(きこう)()かし、日本最大級(にほんさいだいきゅう)となる太陽光発電所(たいようこうはつでんしょ)が2018(ねん)10(つき)1(たち)より操業(そうぎょう)開始(かいし)しました。

瀬戸内市瀬戸内メガソーラー実際の写真

塩田えんでん歴史れきし

  • 1956年塩田をつくるため干拓工事を開始
    干拓着手前の錦海湾の航空写真
  • 1956年塩田をつくるため干拓工事を開始
    この山を切り崩した土で堤防を造りました。
  • 1956年塩田をつくるため干拓工事を開始
    切り崩した土を堤防に運搬しています。当時の土砂を積み込む機械は油圧ではなくワイヤーで動いていました。
  • 1956年塩田をつくるため干拓工事を開始
    師楽側(南側)から見た堤防工事の様子です。
  • 1956年塩田をつくるため干拓工事を開始
    堤防の下側の地盤は非常に弱かったため、北側と南側の両方向から進めてきた堤防を中央付近でつなげる時に堤防が崩壊してしまいました。
  • 1956年塩田をつくるため干拓工事を開始
    ポンプで海水を汲み出していた堤防の内側は、堤防の崩壊により3日間で元の海に戻ってしまいました。
  • 1962年製塩事業開始
    6年間の工事を経て錦海湾を埋め立てた塩田が完成しました。
  • 1962年製塩事業開始
    1962年、東洋一の流下式塩田として製塩を開始しました。
    当時は人手のかかる入浜式が主流であったため、枝条架を利用する流下式の錦海塩田は画期的な塩田でした。
  • 航空写真(1960年代頃)
  • 航空写真(1960年代頃)
  • 航空写真(1960年代頃)
  • 1971年イオン交換法による製塩に転換2002年製塩の中止
    製塩技術が進歩して電気的に塩が製造できるようになり、9年間で流下式塩田の歴史は終わりました。その後、塩田跡地は産業廃棄物処分場等に利用されましたが2009年に所有者の錦海塩業が倒産、瀬戸内市の所有となりました。
    2012年に瀬戸内市が塩田跡地活用事業の事業者を公募し、本プロジェクトが選定されました。
瀬戸内 Kirei 太陽光発電所ご紹介 2014年制作
堤防締切の映像 制作著作:山陽映画株式会社

瀬戸内市(せとうちし) 武久顕也市長(たけひさあきなりしちょう)よりご挨拶(あいさつ)

かつて「東洋一(とうよういち)塩田(えんでん)」と(うた)われた瀬戸内市(せとうちし)所有(しょゆう)錦海塩田跡地(きんかいえんでんあとち)は、(かん)(みん)連携(れんけい)した壮大(そうだい)なプロジェクトによって、(あら)たな拠点(きょてん)()まれ(かわ)わろうとしています。
日本最大級(にほんさいだいきゅう)太陽光発電所(たいようこうはつでんしょ)建設(けんせつ)によるクリーンエネルギーの供給(きょうきゅう)生息(せいそく)する貴重(きちょう)動植物(どうしょくぶつ)(まも)自然環境(しぜんかんきょう)保全(ほぜん)市民(しみん)災害(さいがい)から(まも)安全安心対策(あんぜんあんしんたいさく)土地(とち)()()収入(しゅうにゅう)財源(ざいげん)としたまちづくりへの貢献(こうけん)
これらを実現(じつげん)することで、()どもたちに(ゆめ)希望(きぼう)(あた)え、「太陽(たいよう)のまち」として瀬戸内市(せとうちし)(かがや)(つづ)けることを期待(きたい)します。